学校では教えてくれない、人生の必須科目「はじめの意図」





私たちの世界はまず、

「こうしたい!ああしたい!」
と意図することから始まっている。




人間として地球にやってくる前、

ちゃーーーんと人それぞれ
地球人生の目的・意図があって生まれてきた🌏




ただ、地球上に誕生してからの私たちの世界、
いや、この日本においては特に

自分の「ああしたい、こうしたい」を
自由に吐き出せる環境はあっただろうか。




少なくとも私は、

「ああしなさい」
「こうしなさい」
「そんなことしてはダメ」
「大人/社会人なんだから」
「…(無言の圧力)」


みたいなものによくぶつかって、

親や先生や世間の常識とやらには
不自由を感じることが多かった。




学校教育は特にだけど、

次から次へとやることが決まってて、
そこから外れようものならイエローカード。




いろんな規則・制約で押さえ付けられ
子供の自由な発想を潰しかねない洗礼が
わんさか溢れている。




集団社会の正解とやらを無条件に押し付けられて

個人の自由な選択を、
自分はどうしたいかという意図や目的を、

自分自身に問う時間が
極端に少なかったのではないだろうか。




むしろ

その制約の中で出来ることや
やったら後ろ指刺されないことは何かと

目の前の社会に上手く適応する方法ばかりを
考えるようになっていなかっただろうか。



そんなことばかり染み付いたなら

自分はどうしたいのか、
どうなっていきたいのか、

自分のことがわからなくなって当然だ。




本来あったはずの無限の可能性も
見れなくなるに決まってる。




私は学生時代から反抗的な気質で
よく怒られてきたとは言え

怒られると面倒くさくなってそれ以上の反抗はせず
結局丸め込められる気弱さ?を持ち合わせてしまっていたので笑、

縛りつけられることが嫌だとはわかっても、

「本当はどうしたかったのか」までは
深く考えたことが無かった。




反抗し、怒られ、すぐ鎮火 www

己の本当の気持ちや意図はどこへやら〜
になること多しな幼き日々。




というかそもそも

これといった意図なく
ただ流されて反応して生きてきただけ。




意図する大事さを知らず、

意図する習慣が全く無かったのだから
そりゃ仕方が無いよねって話だけど、

自分のことがよくわからないとか
どうしていきたいかが見えてない人は

全員もれなく意図する力が弱い。



だからこそ

自分含め多くの人は
意図を持つトレーニングが必要。




何か大きなことがあった時だけではなく
1日の始まり、何か行動を始める前、誰かと会う前、

「いい感じにする!」
「楽しむ!」

というような、

頭ではなく感覚・バイブスに重きを置いた意図確認で
日常から理想のワンシーンをはじめてく。




わざわざTODOリストを作る必要も無いし、
細かく具体的な事柄を想定しなくてもいい。
(それが楽しくやれる人ならやった方がいいけれど。)




はじまりを、意図的に、意図していく。



最近までぐだぐだな日常を送っていた私が
久しぶりにやる気になったのも、

意図を持つようになったから。




自分がこの世界を創造した源の存在モードになって
とあることを意図して決めたら、

体が勝手に動いて止まってた時間が動き出した。




私たちが意図する瞬間というのは、
はじまりの法則が働きビッグバンが起きてるようなもの。

そりゃ、小さくても確実に現実は変わっていく——




そんなことを、改めて思い出した今日だった。



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